遊民は如何なる国、何れの時代にもある。何所の国に行っても全国民が朝から晩まで稼いで居るものではない。けれども、国に遊民のあるは決して憂うるに足らぬことだ。即ち、これあるは其の国の余裕を示す所以で、勤勉な国民に富んで居るのは、見ように依ってはその国が貧乏だからである。遊民の多きを亡国の兆だなどゝ苦労するのは大きな間違いだ。文明の進んだ富める国には、必ず此の遊民がある。是れ太平の祥であると云って何も遊民を喜ぶのではない。あっても決して差支えないと言うのである。
其所で、遊民があるとして、無智で下等な遊民の方が好いか、智識ある高等の遊民の方が好いかと言えば云うまでもない高等遊民が好い、同じ貧乏人でも、無智で低級で下等な奴よりは、智識ある高等な貧乏人の方が好いのである。それで、何所の国にでも此の遊民はあるのだが、其の遊民に智識があると否とで、其の国の文明が別れる。智識ある高等遊民のあるのは其の国の文明として喜んで好い、遊民其の物を喜ぶのではないが、国が文明になれば遊民も亦智識が進み、文明になる。それは、国が文明に進むに伴れて教育の進歩した結果、当然来ることで、それを恐れて教育を加減するが如きは可笑い話である。一国の文明に於て国民の智識は平等を欲するが、其の平等は高い程度に於てでなければならぬ。例えば大臣から下等官吏の間に、其の器度才幹に於て差はあっても、智識に於ては同じからねばならぬ。それでなくては一国の文明は完全なる進歩と発達を遂げることが出来ない。そう云う風に一般の階級の人間の智識程度を高めるには、一般の人間が高等の智識を受け入れることが出来るような設備が必要である。高等遊民が出来ることを恐れて教育の手加減をするなどは愚の極だ。
最う一つ言えば、一体国民の智識の高まるのは必然の大勢である。文部省の方針や、制度の塩梅手加減で何うすることも出来るものではない。文部省の施設如何に拘らず、国民はそれ自らに大勢に依って進歩する。我々は高等遊民其の物を決して国家の為めに恐れるものではない。たゞ、高等遊民を恐れて、高等の智識に走らんとする国民の大勢を抑えんとするものあるを恐れるのである。
底本:「魯庵の明治 山口昌男、坪内祐三編」講談社文芸文庫、講談社
1997(平成9)年5月9日第1刷発行
底本の親本:「内田魯庵全集第六巻」ゆまに書房
1984(昭和59)年11月20日
初出:「新潮」
1912(明治45)年2月
入力:斉藤省二
校正:松永正敏
2001年5月19日公開
2016年2月6日修正
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